模擬戦を終えて乾いた喉を潤そうと、忍田真史が飲み物を手にし席に戻ると。
椅子にかけておいた自分のロングコートが、見当たらないのに気がついた。
忍田はゆっくりと辺りを見回す。席を外した少しの間に忽然と消えたコート――である割には、それを探す姿には落ち着きがあった。
やがて、視線をある一点に留める。
忍田は静かにそちらへ向かって歩みを進め――見つけ出した「犯人」の背中に、口元に笑みをたたえながら声をかけた。
「――慶」
名を呼ばれた少年は、びくりと身を震わせる。
ちゃっかりと忍田のコートを身に纏っていた少年――太刀川慶は、立てた襟で半分程隠れた顔を、そろりと忍田の方に向けてきた。
おそるおそる上目遣いで様子を窺う格子状の瞳が、忍田の視線とぶつかる。
暫しその瞳を見つめた後――忍田は朗らかな口調で言った。
「また、背が伸びたな」
視線を太刀川少年の足元の方に落とす。
忍田のロングコートの裾が、踝の少し上の辺りにきていた。
太刀川は上目遣いのまま「まあね」と呟き、口を尖らせる。手放しで喜んでいる風ではないのは、照れくさそうな表情が物語っていた。
「学校で測ったら、去年より5センチ伸びてた」
「すごいじゃないか。コートの裾も、引きずらなくなってきたしな」
全く悪気なく忍田が口にした言葉に、太刀川はあからさまに不本意そうに顔をしかめる。少し頬を赤らめて、口を尖らせたままそっぽを向いてしまった。
――まるで己の成長を確かめるように、太刀川はこうしてしばしば忍田のロングコートを拝借し、身に纏ってみせるのだ。
ほんの少し前は忍田が言った通り、裾をずるずると重たそうに引き摺っては、すっかり床掃除をして回っていたものだった。忍田の後輩に当たる沢村女史にみっちり叱られていたのと、同輩の林藤が歌舞伎役者かと愉快そうに笑っていたのを思い出し、忍田はまた笑みをこぼす。
「これからどこまで大きくなるのか、楽しみだな」
忍田がしみじみと言うと、太刀川は再び忍田の方を見やる。
「まだ、伸びるのかなー?」
「まだまだ、これからだろう。慶は」
少し心配そうに口にする太刀川に、忍田は優しく言ってみせた。
やけに気にしている様子なのは、先日幼馴染の女子に身長を追い越されたと悔しそうにしていたのが関係しているのかもしれない。だが体つきも、声も、少年から大人の男へと今まさに成長している様が日々感じられる。その憂いも、じきに払拭される事だろう。
「ねえ、忍田さん」
太刀川が忍田に向かって、真っ直ぐな視線を向けてきた。
「じゃあ俺、忍田さんの事追い越すくらいに大きくなってみせるよ」
言って、不敵な笑顔を見せる。
「ははは、それは楽しみだ」と、忍田は大きく笑って答えた。
* * * * *
――ボーダー本部の通路にて。
太刀川が歩いていると、向かいから本部長補佐の沢村が歩いてくるところに出くわした。
「あら、太刀川くん。今日は早いのね」
「今日は学校、健康診断だけだったからね――あ、見て見て結果」
太刀川は携えていた健康診断票を、沢村に差し出してみせる。ボーダー隊員の健康管理規則に則って、受診した健康診断の結果を提出しに行くところであった。
「身長がさー、ついに180いったんだよ」
身長の項の数値を自ら指差して、太刀川が自慢げに報告をする。「ほんとだ、すごいわねー!」と、沢村が明るく驚きの反応を見せた。
「高校に入る前辺りから、ぐんぐん背が伸びてきたもんねー太刀川くん。そんなに大きくなったのねえ…」
言って沢村は、感慨深そうにすらして太刀川を見上げる――ほんの数年前まで大して目線が変わらなかった少年は、気がつけば話をする時に顔を見上げるのが当たり前になっていた。
「って事は、本部長と同じくらいになったのね」
何とはなし、といった調子で、沢村がふと口にすると。
太刀川が途端に、にやりと満足気な笑みを浮かべた。
「そう、それ」
ずっと、目標にしていた事。
子供の頃から、大きなロングコートを翻して縦横無尽に戦う忍田の姿を、憧れを抱きながら目にしていた。
少しでも近づきたくて、近づけただろうかと、確かめたくてしょっちゅうそのコートに袖を通してみた。不似合いすぎて、いつも笑われていたけれど。
――やっと、並べるところまできたのかな。
そう思うと、太刀川の心が躍る。早く忍田に報告したくて、うずうずしていた。
「本部長たちも、今日は健康診断に行ってるのよ。もうすぐ戻ってくるんじゃないかしら」
沢村が口にして間もなくである――。噂をすれば、といった具合に、通路の角から話題の人物が姿を現してくる。
忍田本部長と、隣に林藤玉狛支部長の姿もあった。
「本部長!お疲れ様です」
「お疲れ、沢村くん――と、慶も来ていたか」
忍田が二人の姿を認め、爽やかな笑顔を見せた。
「忍田さん、健康診断どうでした?」
太刀川が弾んだ声で尋ねる。長年の付き合いの気安さで、少し軽口も叩いてみせた。
「そろそろ年も年だし、ヤバイ数値とか出てなきゃいいけど」
「本部長は、日々鍛錬を怠らない方ですから。いつだって健康そのものよ」
すぐさま沢村が、太刀川をちくりと窘めるように言葉を重ねた。
「――おっしゃる通り、本部長殿は今年も文句なしに健全健勝でございましたとさ」
おどけた調子で言ってきたのは、林藤であった。「――ただ」と、いやに面白そうな様子で言葉を続ける。
「元気がすぎると言うのか、なんなんだかね――まったくどうなってんだか、この人は」
意味ありげに微笑む林藤に、太刀川と沢村は怪訝な顔をする。二人の無言の問いかけに答えるように、忍田は少し照れくさそうな笑みを見せて、言った。
「……まさかこの年で、まだ身長が伸びているとはな。今年は181になっていたよ」
「え、うっそ」
太刀川が途端に、動揺を滲ませた声を漏らして瞠目する。
忍田の身長――太刀川が到達しあわよくば追い越す事を長年夢見ていた忍田の身長は、太刀川の記憶では180センチメートルの筈であった。1センチ伸びている。
「なにそれ、そんな事ってあんの?」
「ある、みたいだな…私もまったく驚いているよ」
また気恥ずかしそうに微笑んで、忍田は頭を掻いた。
「ここ何年か、コンマ以下の単位で伸びていると感じてはいたんだがな。てっきり誤差の範囲だと思っていたが、さすがに学生時代から1センチ増したとなると――」
忍田は隣の林藤を見やりながら苦笑する。
「これは背が伸びた、と言って良いものだろうか」
「人間って成人してからも、成長期ほどではないにしろじわっと身長伸びる事もある…らしい、って聞いた事はあるけどね。ほんとにそんな話があるとは、いやはや」
林藤も己の想像の余地を超えたといった風で、似たような微笑を返した。
「でも本部長はもともと、コンマ以下では180の後半にありましたからね。数ミリ伸びて1センチ繰り上がった…と考えたら、ありえない事ではないのかも」
「お、さすがお詳しいね」
沢村の見解に林藤が茶化すような口を挟んだのを、沢村はコホン、と咳払いをして躱してみせた。
――それら一連のやりとりを、太刀川は開いた口が塞がらない状態で目にしている。
「それさあ……えー、なんだそれ。マジかよー」
脈絡もなく、ただ、言いようのない驚きや当てが外れた思いを、表現力の欠片もない言葉で表すしかなかった。
「そうだ太刀川くんが、今年の健診で180センチいったみたいですよ」
沢村が太刀川の胸中をお構いなしに、さらりと忍田に伝える。忍田はたちまち顔をほころばせ「そうか、すごいな」と感嘆の言葉を太刀川にかけた。
「すっかり大きくなったな、慶」
心から喜ばしそうな笑顔を浮かべて、太刀川を見つめる。嬉しくはあるが、今の太刀川には楽しくはない。
「だけど、忍田さんはまた1センチ伸びたんでしょ」
もはや完全に膨れっ面で、恨みがましい気持ちすら滲ませていた。
ははは、と忍田は快活に笑って、ふと考えるような素振りを見せて言う。
「そういえば、そろそろ慶に追いつかれそうだなとは思っていたんだったな。――まだまだ負けてはいられないか、という気持ちが、知らず知らずに表に出てきたのかもしれないなあ」
「負けず嫌いにも程があるでしょ、それ…」
太刀川はすっかり脱力した様子で言葉を返した。
「ま、伊達にやんちゃ小僧はやってないって事だな」
林藤が相変わらず、面白くて仕方なさそうに笑い混じりで言う。
やんちゃすぎるよ、と呆れた調子で太刀川が返す。その内誰とはなしに笑い声がこぼれ、それがじきに4人に伝播していった。
笑いながら――忍田は、参ったといった様子でいながらもまだ悔しそうな、複雑そうに苦笑している太刀川を見つめる。
ふと、昔の記憶が思い起こされた。
『――俺、忍田さんの事追い越すくらいに大きくなってみせるよ。……そしたらさ』
在りし日の太刀川少年が、彼にはまだぶかぶかな忍田のコートを身に纏い、言った言葉。
『――このコート、俺にちょうだい』
期待に満ちた、しかし少し緊張を滲ませた表情で、忍田に言った。
『欲しいのか。こんな着古したものだが』
『うん。俺が、カッコ良く着られるようになったら』
言ってから、己の言葉に照れたように太刀川が俯く。
忍田はそんな太刀川を、穏やかな微笑をたたえて見やり。くしゃりと、太刀川の頭を撫でてみせた。
――あの約束を、慶はまだ覚えているのだろうか。
懐かしい記憶を呼び起こして、忍田はその記憶の中の少年と、今目の前にいる青年へと成長しつつある太刀川を重ねて目を細める。
本当に、気がつけばこんなにも大きくなっていたのだった。身体的な面だけではなく、ボーダー隊員としても、大きく。
今の太刀川は、A級隊員として一部隊を率いる隊長の任を負っている。かつての忍田を思わせるような、漆黒のロングコートを隊服として身に纏いながら。
その腕には『A 01』――精鋭A級部隊の最高峰に立つ事を意味する、誉れ高き部隊章が刻まれている。
もう自分のお古など、欲しがったりはしないのかもしれない、と。
思いながらも、忍田は、あの約束を忘れた事はなく。こうして彼の成長を実感する度に、当時の記憶が鮮やかに蘇ってくるのだった。
太刀川にねだられれば、いつでも贈る準備は整っている。
けれども、もしその時がきて、太刀川がそんな話など覚えていなかったりなかった事のように触れてこなかったりしたら――ちょっと、寂しいかな。と忍田は正直な思いを抱く。
だからといって、こちらから話を持ち出すのも、弟子にいらぬ気を遣わせてしまったりしてはきまりが悪い――
このところは時折そんな思いを巡らせては、密かに考えに耽っていた忍田であったが。
――まだ、もう少しの間は大丈夫みたいだな。
太刀川が言う負けず嫌いの質なのか、年甲斐もなくやんちゃと呼ばれる性分が影響したのか。己の身体が弟子と張り合うようにして、その成長の先を行くように「進化」している様を感じ、忍田はこっそりと苦笑する。
いつか、本当に追い越される日が来るのだろうか。――そうだとしても、今はまだもうちょっと、こうしてもどかしげに悪戦苦闘する弟子の姿を見ていたいかな。
そう、悪戯っぽい事を思いながら。忍田は太刀川の顔を、またあたたかな眼差しで見つめていた。